■アンディよ、永遠なれ■ 2000年8月24日午後6時21分、K−1戦士アンディ・フグ選手急死。その報を聞いたとき、私は一瞬、我が耳を疑った。つい先月、K−1ジャパンで、ノブ・ハヤシ選手に余裕のKO勝ちをおさめ、アンディ健在をこの私の目に見せつけてくれたばかりなのである。急性前骨髄性白血病という10万人に数人の病気であったという。 アンディ・フグという空手家を私は88年極真空手第4回世界大会において俄然注目することとなる。その当時、かかと落としなる技は私自身見たことがなかったし、格闘技の世界においても未知の技であったと思う。始めて見るその技に私は目を奪われた。なにせその蹴りは、上から降ってくるのである。いままでの常識を覆すその技を引っ提げて世界大会に参戦したフグは、他の選手に取って驚異であった。事実、皆、かかと落としに対する免疫がなく、したがって受けの仕方もおぼつかない。ことごとく翻弄され、フグの前から散っていったのである。 その頃はまだ極真会総帥大山倍達健在の頃であり、したがって、世界チャンピオンを海外に流出するなんてことはもってのほかの時代であった。世界大会の度に、大山総裁は、日本が、負けたら腹を切る、と口癖のように言っていたのだから、本家日本としてはもう死にもの狂い、王座を死守するしかなかったのである。したがってアンディという、青い目の選手の破竹の勢いはまさに驚異だったはずである。いまにして思えば、同じ極真会で、なんで? という感じなのであるが、とにかくその頃はそういう時代だったのである。私自身、今回ばかりは、日本危うし、とも思ったものである。 もう一つ、驚いたこと、それは、フグのそのスタミナであった。空手の試合においては普通、時間が経過するにつれ、どうしても技自体単調になり、ほとんどガマン比べ、押し合い比べと言った様相になるのだが、フグにいたっては、試合の終盤になっても次から次へと大技が繰り出されるのである。まさに全身バネ、見ていて驚異に感じたと共に、なぜか試合自体にワクワク感をも感じ得たのである。これぞまさに空手の本来の有るべき姿ではないか、と思ったものである。 この大会でフグは決勝まで勝ち進み、現極真会館長である、松井章圭氏と対戦することとなる。結局延長戦の末、僅差の判定負け、その当時の外国人最高位である準優勝を遂げたのである。しかし試合自体は一進一退、フグが反則である顔面への突きをただ一回放ったことによる減点での判定負け。もう一度、延長を行なっていれば、松井選手も危なかったのでは、というような内容であった。 次の92年第5回世界大会では、あのフランシスコ・フィリョにKO負けを喫する。このフィリョに数年後、K−1においてもKO負けすることになるのだが、、、、 そしてその後、長年育った、極真空手を離れ、正道会館、そしてK−1進出ということになる。はたして、空手の選手がグローブをはめ、超一流の選手相手に通用するのか?顔面に対する攻撃に対応できるのか? フグがK−1転向の際に誰もが感じた疑問であった。しかし私は、この一人の空手家のチャレンジをいつの間にか応援していたのである。 極真会から離れた'92年、 フグは正道会館に参戦したのだが、この頃まだK−1はなかったと思う。しかしながら正道会館は、空手に革命をもたらすべく顔面攻撃を導入、即ちグローブを採用するという試行錯誤を行なっていた。たしかラウンドごとに、空手ルール、グローブ着用ルール、と交互に入れ替えるルールも実験的に行っていたように思う。 '93年、その試合形式でフグは、その当時飛ぶ鳥も落とす勢いの成長株、佐竹雅則と対戦する。たしか、カラテ・ワールド・カップという大会の決勝だったと思うが、この大会自体、この二人のためにあったと言っても過言ではない大会だったと思う。なにせ他の選手の記憶がない(汗)。 試合は一進一退、ボクシング着用では、やはり2人共空手家ゆえ、なにかぎこちなさを感じた覚えがある。結局判定までもつれ込むが、試割判定の1枚差でフグは敗れることとなる。佐竹はフグに勝利したことで一気に世間の注目を浴びたし、本人もまた、ますます慢心していった。しかし、その後の、この二人の実力差は知っての通りである。 そして、同年'93年、ついにK−1が旗揚げされ、翌'94年にK−1グランプリが開催される。まだ、グローブマッチに対しての技術が発展途上のフグは、廻りも、また本人も疑心暗鬼のまま出場する。そして、初戦、パトリック・スミスと対戦。スミスはアルティメットの大会にも出場するオールマイティな選手であったが、このルールなら、紛れもなくフグの土俵、よもや負けることはないだろうと思われた。しかし、1R、スミスの怒涛のパンチのラッシュにフグは対応できず、まともに顔面にパンチを食らう。そしてもんどりダウン。ダウンして立ち上がる際の息入れさえ知らないフグは、間髪入れずに立ち上がる。そしてスミスのラッシュは、再び容赦なくフグを襲う。そしてまたもダウン。立ち上がった瞬間にも、だめ押しの一発、衝撃のKO負け。 茫然とするフグ。どうしてオレが負けたのか、分けが分からないといった表情である。かくしてフグの第1回K−1グランプリは、壮絶な1回戦KO負けで幕を閉じた。因みにこの大会優勝者は、誰も予想していなかったその当時無名の伏兵、ブランコ・シカティックであった。 その同じ年、フグはパトリック・スミスとリベンジマッチ、見事KOでリベンジを果たす。しかも同じ1Rで。 そして次の年の第2回K−1グランプリ、フグの1回戦の相手は、当時そのパンチの勢いは驚異で、注目され始めた頃のマイク・ベルナルド。ただでさえ、パンチの顔面に対する攻撃に対して不安のあるフグにとって、この相手はやはりかなり危険であった。その不安は的中。1、2Rはなんとかパンチを凌ぐも、3Rついにベルのパンチのラッシュに捕まり、マットに沈む。またもや1回戦で姿を消したのだった。 第1回、第2回Kー1グランプリ、連続1回戦負けを喫したフグ、廻りからはフグは終わったと言われたし、私自身、空手家がこのルールで闘うには、やはり限界があるのかと、少し寂しく思ったものである。それでも、フグはめげずに果敢に挑戦を続ける。その年、ホーストに僅差の判定で勝ちを収めるも、ベルナルドとの再戦で、またもKO負けを喫する。もうベルナルドに勝つ日はこないのではないかと思われるほどの完敗だった。しかし、この敗戦を機にフグは技術的にも精神的にも大躍進を始めたように思う。 '96年、背水の陣で第3回K−1グランプリに出場。 鬼門の1回戦は、見事1RKOにて勝利。これが記念すべきK−1グランプリ初勝利ということになる。次の2回戦の相手は、強敵ホースト、この試合がまったくもって、もの凄いものとなった。両者一歩も引かず一進一退の攻防。本戦で勝負がつかず延長、そして再延長、二人共気力だけで立っている、といった風であった。そして息を飲む判定、、、ついにフグの名前が上がる。まさに気合いでもぎ取った1勝であった。 そしていよいよ決勝、ここで三たび、ベルナルドと拳を合わせる。ベルナルドの方はというと、この前の試合でピーター・アーツと対戦。この試合も壮絶なものとなり、ベルナルドの足は、アーツのローキックで半ば壊れていた。しかしフグもホーストと過酷な延長戦を闘っており、立っているのもやっとの状態であった。条件はほとんど一緒、その様な状態で二人は対戦したのである。そしてついにその時はやって来た。2R、のちにフグトルネードと名付けられた、相手のスネめがけての回転後ろ回し蹴りで、ベルナルドのスネを直撃、そしてダウンを奪う。観客も一体になってカウントする。そしてついにカウント、テン。フグは悲願のK−1初制覇を成し遂げたのである。勝利が決まった瞬間フグは右手を突き上げ、そしてセコンドと抱き合って喜ぶ、その様はいまも脳裏に焼き付いている。観客の歓喜もまた凄かった。これでフグは、K−1での自分の地位を確固たるものにしたのである。ミスターK−1、これがフグに与えられた称号であった。 そうしてフグは、アーツ、ホースト、ベルナルドらと共に、人気、実力ともK−1にとって欠くことのできない存在となっていたのである。 3年前、古巣の極真空手からフランシスコ・フィリョが参戦。そしていきなり極真世界大会で1本負けを喫している相手との因縁の対決、とは言え、その頃のフグは、Kー1においては連戦練磨、技術的にも円熟期に入っており、やはりフィリョに不利なことは明らかだった。その時、正直言って、極真びいきだった私は、極真を離れて行ったフグよりも、現役極真空手のフィリョを応援していた。そしてその衝撃のフグのKO負けを私は現地で歓喜して見ていたのである。 できれば、フィリョとの再戦を、今年のグランプリで是非とも見たかった。 フグがK−1に参戦し始めた頃の、あの技術的、精神的試行錯誤の時代、それは、いまのフィリョ、フェイトーザにも通ずるものがある。彼らがきっと、フグの負けじ魂、そして根底にある空手の押忍の精神を受け継いで、今後K−1で活躍してくれるに違いない。
アンディ・フグ 1964年9月7日スイス・チューリッヒ出身 180cm、98キロ 享年35歳 ご冥福をお祈り致します。押忍 |